【静岡】大井川と蓬莱橋の観光・歴史 なぜ橋をかけられなかったのか?わかりやすく解説!

大井川(静岡県島田市)

今回は、静岡県島田市(しまだし)にある、大井川(おおいがわ)・蓬莱橋(ほうらいばし)の観光・歴史についてです!

この地域の観光・歴史について、わかりやすく解説していてゆきます!

  1. 静岡県を代表する川の一つ・大井川
    1. 大井川と島田市は、そもそもどこにある?
    2. 昔はなぜか橋がかかっていなかった、大井川
    3. そもそも、「大井川」とは?
    4. いわゆる「リニア問題」で、よく話題に上がる「あの川」のこと
      1. 「リニア問題」について簡単に解説
    5. 江戸時代には、良くも悪くも全国レベルで知られた川だった
      1. 大雨で足止めを食らうと、何日間も「宿場町」に滞在で「足止め」
    6. 「大いなる川」名前の由来
      1. 「ありがたい水を運んできてくれる川」などの意味
  2. 水の量がとても多い、大井川
    1. 南アルプスに降った大量の水が、川となって大量に流れる
    2. 豊富な水がもたらすめぐみ
    3. しかし、氾濫すると大変なことに
  3. フォッサマグナが運んでくる土砂
    1. 大量の土砂が、下流にたまって「平野」を作る
    2. 「フォッサマグナ」とは?
      1. 大昔、日本列島は「真っ二つ」になったことがあった
      2. なぜ日本列島の形は、折れ曲がった形なのか?
      3. フォッサマグナの範囲は?
  4. 江戸時代の大井川をとりまく、様々な事情
    1. 江戸の防衛強化のために、わざと橋をかけなかった?
    2. 「越すに越されぬ大井川」
    3. なぜ橋をかけることを禁止したのか
      1. 水の量が多すぎて、どうせ橋をかけても流されるから?
      2. 宿場町や、川会所の利益に配慮したから?
  5. 大井川の川越制度について
    1. 「川越制度」とは?
    2. 「川越人足」とは?
    3. 川を渡る「様々な方法」
    4. 「川会所」の役割
    5. 幕府による機関・役人による運営だった
      1. 川の深さで料金を決定する「川庄屋」
      2. お金の計算をする仕事「年行事」
      3. 水の深さを計測する仕事「待川越」
    6. 一人前になるまでには、厳しい修行が必要だった 川越人足
    7. 横暴に詐欺・・・川越人足の問題点
      1. 殿様商売「乗せてやってる」という姿勢
      2. 橋をわざとかけなかった理由も、わかる気がする・・・
    8. 水が深いときは(緊急時を除き)原則として渡れなかった
    9. 水(川)が深くなるほど高額だった
  6. 大井川の経済効果は大きかった?
  7. 蓬莱橋(ほうらいばし)
    1. 江戸時代に、この地域の開墾が推奨される
    2. 徳川家達(いえさと)とは?
      1. 静岡藩とは 「駿河府中」から、縁起を意識して「静岡」へ
    3. 牧之原台地と、島田を結ぶためにかけられた蓬莱橋
    4. 現在の蓬莱橋
    5. 厄(やく)が存在しない、「長生き橋」
  8. おわりに:「大井川に橋があることの素晴らしさ」

静岡県を代表する川の一つ・大井川

今回は、静岡県島田市(しまだし)にある、大井川(おおいがわ)・蓬莱橋(ほうらいばし)の観光・歴史についてです。

大井川(静岡県)

大井川と島田市は、そもそもどこにある?

静岡県島田市(しまだし)は、静岡県のだいたい真ん中あたりにある街になります。
県庁所在地の静岡駅から、電車で西へ約30分ほどの位置にあります。

島田駅(静岡県島田市)

その島田市の西には、大井川(おおいがわ)という大きな川が流れています。

この大井川(おおいがわ)こそが、今回のメインテーマになります。

昔はなぜか橋がかかっていなかった、大井川

大井川(静岡県)

大井川には、歴史的に橋がかかっていませんでした。
そのため、わざわざ人を肩に乗せて運んでいたのでした。

いやいや、橋をかけりゃいいじゃん!
って思うかもしれませんが、実際にはそんなに単純な問題ではなく、橋をかけられなかったのには、当時の日本ならではの様々な理由があったことが、近年の研究でわかってきています。

そのため今回は、

  • なぜ大井川では、橋をかけられなかったのか?
  • もし橋をかけると、当時の日本ではどんな問題が起きてしまうのか?

について是非考えながら、読んでいってもらえたらと思います。

では、その大井川について、詳しくみていきましょう!

そもそも、「大井川」とは?

大井川(静岡県島田市)

大井川(おおいがわ)は、静岡県のまん中たりを縦(南北)に流れている、とても大きな川です。

大井川は、静岡県の北部にある南アルプス(赤石山脈)にある間ノ岳(あいのだけ:標高3,189m、日本第4位の高さの山)から流れ始め、南へ南へと流れ、人々の住む農地・民家を潤(うるお)しながら、やがては太平洋・駿河湾(するがわん)へと注ぐという川になります。

いわゆる「リニア問題」で、よく話題に上がる「あの川」のこと

リニア中央新幹線の問題で、静岡県による

大井川の水は、一滴もゆずらない

という発言をニュースで見た・聞いたことがあると思いますが、あの大井川です。

「リニア問題」について簡単に解説

ちなみに「リニア問題」について軽く解説しておきます。

リニア中央新幹線は、大井川の上流地域を通ります。
リニアの工事では、トンネルを掘るときに噴出してしまう大量の地下水を吸い出してやらないと、トンネルは水だらけになって水没し、大事故になってしまいます。もちろん掘った後も、定期的に地下水の処理は必要になってきます。

しかし、だからといって大量の地下水を意図的に吸い出してしまうと、今度は大井川の水が無くなってしまいます
そうなると、大井川周辺の農家や住民に対して、「水不足」という多大な影響が出てしまいます。
だから、静岡県は先程の「大井川の水は一滴もゆずらない」という発言を出しているわけですね。

もちろんこれに対して、JR東海
大井川の水はきちんと返すから、問題ない
とコメントしています。
しかしこれに対しても静岡県は認めないという姿勢であるため、ずっと議論が続いているわけです。

新幹線の線路建設は、通過する都道府県の知事が許可を出さないと、建設ができないという決まりになっています。
静岡県は許可を出していないため、リニアの線路建設が遅れているというわけです。
これが、いわゆる「リニア問題」になります。

リニア問題については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

江戸時代には、良くも悪くも全国レベルで知られた川だった

大井川は、江戸時代には(いい意味でも悪い意味でも)全国的にその存在が知られていました。
というのも、後述する通り

  • 渡れない川
  • 越すにも越せない川

として有名だったからでした。

大雨で増水してしまうと、すぐに通行止めになって渡れない川だったため、旅人たちにとってはとにかく苦労する川だったのです。
大井川で足止めを食らうと、何日間も手前の宿場町に滞在することになってしまいます。そのため、目的地に着くのが遅れてしまっていたからですね。

大雨で足止めを食らうと、何日間も「宿場町」に滞在で「足止め」

ちなみに大井川の両端には、

  • 島田宿(しまだしゅく)
  • 金谷宿(かなやしゅく)

という二つの宿場町が存在し、これから難関の大井川を渡ろうとする前の旅人たちで、大いに盛り上がったのでした。

この旅人たちの「何日もの滞在」により、宿場町には大きな利益があった(シンプルにいえば、儲かっていたともいいます。

「大いなる川」名前の由来

大井川(おおいがわ)」という川の名前の由来には、

  • 偉大な水大いなる川)」
  • 大きな水の流れ

などの意味があります。
つまり、「大いなる水の流れ」という意味ですかね。

ちなみに、

  • 愛知県の豊川(とよかわ)も「豊富な水の川
  • 北海道の幌別川(ほろべつがわ)も「大きな川」(※アイヌ語由来。アイヌ語で幌別は「大きな川」の意味。)

などの意味に由来しています。
こうしたネーミングの川は、全国規模では一般に存在していたりします。

「ありがたい水を運んできてくれる川」などの意味

昔は「湧き水」のことを、「(い)」と呼んでいたのでした。湧き水は、昔の人にとっては本当に貴重な存在でした。
つまり「」というと、貴重な水が流れ出てくる源泉(みなもと)とも言い換えられます。

昔の人にとっては、水はとてもありがたい存在で、神のめぐみのようなものでした。
現在のように水道・ダムなどのインフラが整っている我々からすれば、考えにくいことでしょう。

したがって、そんな「大いなる水を運んできてくれる川」という意味で、大井川と名付けられたのでしょう。

水の量がとても多い、大井川

大井川は、南アルプス険しい山岳地帯を流れて下ってゆきます。
それは言い換えると、南アルプスに降った大量の雨水を、大量に下流へ運んでくるという意味になります。
なので、大井川には昔から「大量の水」がもたらされる川だったのでした。

南アルプスに降った大量の水が、川となって大量に流れる

大井川の回りには、年間を通じてたくさんの雨が降ります。
それは上流部の南アルプスの複雑な地形により、夏の期間は特に雨雲がたまりやすく、大量の雨が降り注ぐからです。

その大量の雨水が、川によって太平洋側へ大量に流されてくるわけです。
そのため、古くから水の量がとても豊富な川として知られていたのでした。

豊富な水がもたらすめぐみ

こうした大量の水のため、大井川の周辺には、農家が育てている作物が育つために、必要な水がたくさんあるわけです。

そのため多くの人々(特に農家の人々)が、この大井川の近くに住みたくなるのもわかる、というわけです。

しかし、氾濫すると大変なことに

逆にいえば、水が多いということは、ひとたび大雨が降るとあっという間に氾濫してしまい、周辺の農家や民家に対して甚大な被害を与えてしまうということでもあります。

そしてその「大量の水」がもたらす「洪水」こそが、大井川になかなか橋をかけられなかった理由とも考えられているのです。
江戸時代の技術では、「流されない橋」を作ることが難しく、
だったら最初から橋をかけない
ということも多かったのでした。

橋をかけない代わりに、当時の日本各地の川では「渡し舟(わたしぶね)」という舟で対応していたのでした。舟に人を乗せて、向こう岸まで運んでいたのです。
しかし、大井川では「渡し舟」すら認められていなかったので、「肩車」などで対応していたわけです。

フォッサマグナが運んでくる土砂

大井川は、かつてフォッサマグナ(※後述します)が崩れ落ちたときに出来た土砂がとても多く存在する地帯が、大井川の上流の地域に存在しています。

大量の土砂が、下流にたまって「平野」を作る

その大量の土砂のために、川が運んでくる土砂の流出量も、とても多かったのでした。
加えて、川は地面を侵食しながら流れます。
地面を侵食するとき、削られたたくさんの土砂が下流へと流れてゆきます。
それらの土砂が下流にたまって(堆積して)ゆき、広大な河原(扇状地)を形成してきたのでした。

日本にある平野の多くは、川の運んできた土砂が積み重なってできた、いわゆる扇状地(せんじょうち)になります。
まるで(おうぎ)の形のような平野になることから、「扇状地」というわけです。

「フォッサマグナ」とは?

フォッサマグナとは、大昔、日本列島東が西に引っ張られ、真っ二つにちぎれてしまったときに、そのときに出来た海のことです。

大昔、日本列島は「真っ二つ」になったことがあった

なぜ日本列島が真っ二つにちぎれたのかというと、日本は

  • 南側から上に押し上げる、フィリピンプレート(※南海トラフ地震の原因になるといわれているプレート)
  • 東側から押し付けてくる、太平洋プレート(※東日本大震災の原因になったプレート)

に、それぞれ囲まれているからです。

なぜ日本列島の形は、折れ曲がった形なのか?

日本列島が現在のように「折れ曲がった形」になっているのは、上記の二つのプレートによって、南から・東からそれぞれ押さえつけられているためです。

そして大昔、それぞれのプレートで押さえられ過ぎて、日本列島はバキッと分断されてしまいました。

このとき分断されて出来た深い溝(海)が、フォッサマグナです。
もちろん現在はフォッサマグナは存在せず、今のようにきちんと陸地になっています。

フォッサマグナの範囲は?

  • 新潟県・糸魚川(いといがわ)~静岡糸魚川静岡構造線
  • 新潟県・柏崎(かしわざき)~千葉柏崎千葉構造線

という、糸魚川・静岡・千葉・柏崎4地点で囲まれた四角形の領域は、かつて大昔はフォッサマグナという、海の底だったわけです。

フォッサマグナについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

江戸時代の大井川をとりまく、様々な事情

江戸の防衛強化のために、わざと橋をかけなかった?

江戸時代、旧・東海道(※)のルートの上には

  • 天領幕府領、直轄領):幕府が直接コストを割いて、藩を置かずに、幕府が直接自身で支配する領域
  • 親藩・譜代大名:幕府にとって信頼のできる、徳川家の身内(みうち)や、関ヶ原以前から仲間どうしだった大名(らが支配する領域)

などといった、徳川家から信頼された大名などの領土で固められていました。
つまり、東海道(※)というとても重要なルートの上には、徳川家の身内と、信頼できる大名(親藩・譜代)だけで固めていたわけです。

逆に、信頼できない大名外様大名)は、西日本や九州などの遠くへ飛ばされてしまいました。
なぜ外様大名は信頼できないのかというと、「関ヶ原の戦い」のときには徳川家の敵だったからであり、負けて遠くへ飛ばされたため、徳川家を恨んでいる可能性があるためです。
そのため、江戸幕府に対して反乱を起こし、江戸に攻めてくる可能性があったわけですね。
そうした大名らが江戸幕府に逆らって江戸へ攻めてこないように、大井川は防衛強化に当てられていったのでした

※「東海道」とは?

その昔、江戸時代は江戸から京都まで「東海道」とよばれる幕府が整備した道を、約20日ほどかけて歩いて(または馬で)移動していたのでした。
何日も何日も歩いて移動するため、旅人達にとっては「泊まる場所」が必要になります。
それが「宿場町」であり、東海道には全部で53の宿場町があったことから、「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」と呼ばれています。

なお、大井川の両端には、先述の通り

  • 島田宿(しまだしゅく)
  • 金谷宿(かなやしゅく)

が置かれていました。

大井川は、こうした東海道を通じて、江戸へ攻めてくる一歩手前の「自然のバリヤー」になるわけです。

加えて大井川は、徳川家康が息子の秀忠(ひでただ)に将軍職をゆずり大御所(おおごしょ)として君臨したときの「つい(終)の住みか」であった静岡市・駿府城の防衛の役目を果たしていたのでした。

こうした軍事的な理由から、大井川には

  • 橋をかけること
  • 人を乗せるための「渡し船」

も、すべて厳禁とされたのでした。

「越すに越されぬ大井川」

このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、

箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川

と唄(うた)われわれたのでした。これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉になります。

箱根(はこね)とは神奈川県と静岡県の境界にある山ですが、確かに「天下の険(けん)」と呼ばれるほど険しい山ではあるものの、馬でも越そうと思えば、なんとか越せるようにも思えます。
しかし、大井川の場合となると、その馬ですら越せるかどうか怪しいわけです。もし1m近く浸水したら、馬だってまともに川を渡ってくれるか、果たして怪しいものです。

箱根については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 東海道編 第23番においても、

昔は人を肩に乗せ
渡りし話を夢のあと

と歌われています。
詳しくは、以下の記事をご覧ください

なぜ橋をかけることを禁止したのか

ここまで解説してきた通りで、なんとなく橋をかけられなかった理由が、わかってきたことと思います。

先述の通り、「橋をかけること」や「渡し船」を禁止した理由として、従来より最もメジャーだった説としては、

大井川をいわゆる「外堀」つまり自然のバリアーとして、
江戸幕府へと反抗して攻めてくる大名などから江戸を守るための、
いわゆる「防衛上の理由

がメインであるとされてきました。

しかし近年の研究では、

  • 昔の大井川はとても水量が多く、流れも急だったため、そもそも大井川は、橋をかける川としては向いていなかった。
  • 川会所」や、また宿場町島田宿金谷宿など)の利益・人件費・職・雇用などを守るためであった。

とも言われています。

水の量が多すぎて、どうせ橋をかけても流されるから?

まず先述の通り、大井川はとても川の水の量が多いです。

そんな川がもし大雨で増水しようものなら、江戸時代の技術では、橋をかけたとしてもあっという間に流されてしまというわけです。

宿場町や、川会所の利益に配慮したから?

また、後述するように、川を渡らせるための業務(川越人足といいます)には、たくさんの人が雇われていました
もし橋をかけてしまうと、その人たちの雇用・給料・生活が失われてしまうことになります。

また、大井川が大雨で増水したときに、人々は川を渡れなくなるわけなので、川の両端にあった宿場町に、何日も滞在することになります
彼らの滞在期間が長引くほど、宿場町は儲かるということになるわけなので、橋をかけてしまうと宿場町の利益にも影響が出てしまうことになります。
そんな宿場町に対して配慮し、橋をかけなかった、という説があるわけです。

大井川の川越制度について

「川越制度」とは?

川越制度(かわごしせいど)とは、江戸時代に大井川を渡るために設けられた、様々な仕組みや方法・決まりなどのことです。

江戸時代は、大井川を渡るときには大名や庶民などの身分に関係なく、まずは「川札(かわふだ)」とよばれるチケットを買ってから、後述するように肩車(かたぐるま)や蓮台(れんだい)などの様々な方法を使って、川を渡ったのでした。

これを、川越(かわごし)といいます。
(※「かわごえ」とは読みません!)

明治時代になると、川越制度は廃止されたのでした。
鉄道(東海道線)が出来て、橋もかけられましたからね。

「川越人足」とは?

人足」にんそくとは、文字通り「人の足」のことです。
つまり、他人の足を使って渡る、という意味・ニュアンスになります。
まるで人の足を道具のように言うような呼び方ですが、江戸時代と現代では倫理観が異なるため、こういう言い方も仕方ないのかもしれません。

「他人の足」とは具体的に、

  • 肩車(かたぐるま)
  • みこし
  • 輦台(れんだい)
  • (かご)

などのことです。
詳しくは後述します。

川を渡る「様々な方法」

大井川を渡るためには、実に様々な方法がありました。

  • 肩車(かたぐるま):鉄道唱歌にも歌われている、最もオーソドックスな方法です。人を肩に乗せて、川を渡るわけですね。
  • 輦台(れんだい):2本の長い棒に、人が乗れるほどの板を取り付け、それを人がかついで運ぶというやり方です。輦台を使うためには、別途チケットを購入する必要がありました。
  • 馬越(うまこし、まごし):馬に乗って川を渡ることです。
  • 棒渡し:二人が持っている棒につかまって渡る、というやり方です。

などで川を渡っていったという制度です。

「川会所」の役割

大井川には「川会所(かわかいしょ)」という、川越制度を行うための事務所・営業所のようなものが置かれていました。

そこには、

  • その日の川を渡る「川越人足(かわごしにんそく)」を雇うために買う必要があるチケットである「川札(かわふだ)」
  • 輦台を使用するために必要なチケットである「台札(だいふだ)」

の値段が、それぞれ提示されていたのでした。

なんか、

  • 川札乗車券
  • 台札特急券

みたいですね。

例えば、川札だけだと「肩車(かたぐるま)」という、少しずおぼつかない川渡りになるわけです。
しかし、輦台だともう少し快適な川渡りができるわけなので、ちょっと金を持っている人や、贅沢をしたい人は「輦台」を使っていたのでしょう。
特急料金」「グリーン車」みたいな感じですかね。

幕府による機関・役人による運営だった

川越人足の運営は、当初は、島田代官宿場役人などといった「お偉いさん」たちが、大井川を渡るときの管理・統制していたのでした。
つまり、幕府の武士が、公務員のようにやっていたわけです。
代官とは、幕府に代わって送られる公務員のようなものです。

しかし1696年になると「川庄屋(かわしょうや)」と「年行事(ねんぎょうじ)」という役職が新たに任命されてゆき、川越制度がより正式な形で作られていったのでした。

しかしこれは、後述するように、あくまで幕府の機関がやっている公的機関であり、民間に委託しているわけではないと思われます。
そのため、競争原理が発生するわけではなく、お客様に対する低姿勢では決してない、いわゆる殿様商売だったものと思われます。
武士がやる商売なので、読んで字のごとくって感じですね・・・

そのため、旅行者に対して横柄な態度を取ったりして、後述のように様々なトラブルがあったようでした。

川の深さで料金を決定する「川庄屋」

川庄屋(かわしょうや)は、伝馬方から選ばれており、その日の料金を決定するという役目があったのでした。
なぜなら水の深さによって、料金が異なっていたからです。

大雨の増水などで川が深いほど、料金は高くなっていました。

お金の計算をする仕事「年行事」

年行事(ねんぎょうじ)は、川越人足のうち(引退した?)高齢者からなる役職であり、

  • いくら売上が上がったかをまとめる(帳簿記載)
  • 人足(従業員)に払うべき給料はいくらか計算し、人足を配置する
  • 幕府に納めるべき税金はいくらかを計算して、まとめる

みたいな仕事をやっていたわけです。
つまり、体力をあまり使わない事務的な管理業務ですね。

水の深さを計測する仕事「待川越」

そのほかにも待川越(まちかわごし)などが置かれたのでした。

待川越は、朝に川の「水深」と「川幅」を計測する役だったのでした。
つまり、川のコンディションを測定することで、今日は渡ってもいいかなどを決めていたわけですね。
また、水の深さによって料金異なるなため、正しく料金を取るためにも、この仕事は重要だったのでした。

大雨・増水で深くなっている箇所ほど大変になるわけなので、きちんとその分の料金を取らないといけないわけです。

そして、中にはわざと深いところを通って、高い料金を請求するなどという、ヤバいことをする人もいたのでした。

一人前になるまでには、厳しい修行が必要だった 川越人足

川越人足は、12歳頃から「見習い」として雑用をするというところから始まります。
15歳頃から「水入(みずいり)」という訓練期間となり、この期間で一人前の川越人足になるための修行を行っていったわけです。

一人前になると川会所に申し出て、許可を受けてから、ようやく一人前の川越人足として、仕事を行うことが出来るようになったのでした。

そして、年齢と経験を重ねるごとに、少しずつ階級を上げ、出世していったのでした。

横暴に詐欺・・・川越人足の問題点

川越のための料金は高く、決して安くはなかったとともに、

  • 川越人足たちによる、横暴・がさつな対応、横柄な態度
  • 旅行者を騙しての詐欺

によって、より多く料金を取られるなどの様々な問題も横行したりしました。

これだと、旅人たちからは「橋をかけてほしい」って思ってしまいますよね。

殿様商売「乗せてやってる」という姿勢

なぜこうなるのかというと、いわゆる川渡りのための業務は、幕府から任命されたお偉いさんたちがやっている殿様商売なわけなので、仕方ないと思います。
もし民間のライバル他社や、同業他社などがいるのであれば、そこに競争原理が発生するあめ、こんな横柄で横暴な態度はとれるわけがありません。すぐにクレームが出て、ライバル他社にお客を取られるだけです。

しかし幕府の組織がこれらの業務をやっている以上、「乗ってもらってる」のではなく、「乗せてやってる」という態度なわけです。

橋をわざとかけなかった理由も、わかる気がする・・・

こう考えると、大井川に橋をわざとかけなかった理由は、彼らの職を失わせないためだったんじゃないかとか、色々考えてしまいます(考えすぎ?)。

もし大井川に橋をかけてしまうと、川越人足の人件費をはじめ、

  • 所長の給料や「イス」
  • 川の深さを測定する人の給料
  • 料金の計算などをする人の給料
  • 育成するための講師の給料

など、全部無くなってしまうわけです。

もし幕府から橋がかける方針が出されたとしても、彼らによって全力の反対運動などがあったのかもしれませんね。

水が深いときは(緊急時を除き)原則として渡れなかった

ちなみに川を渡っていい時間は、午前6時ごろ~午後6時ごろの時間までが原則だったようでした。
しかし特別な許可があれば、夜間でも川を渡ることが認められていたのでした(とはいえ厳しい世の中だったため、そうそう無かったとは思います)。

年中無休であり、たとえ冬の極寒で水が冷たいときにも「川越人足」は行われていたようです。

大雨・増水によって川の深さが約1.4メートル以上に達したときは、安全のために「川越人足」の営業を取りやめたのでした。
しかし、幕府にとっての重要文書を入れた箱である御状箱(ごじょうばこ)を運ぶときは、特別措置で約1.5mの深さまでは渡っても良い、ということになっていたのでした。
緊急の場合は仕方なかったわけですね。

水(川)が深くなるほど高額だった

川を渡るときは、「方法」と「水深」などによって、値段は変化したのでした。
大雨増水などで深くなるほど、当然ですが値段はより高くなったのでした。

大井川では、約76cm以上の深さになると「手張(てばり)」とよばれる補助者が1人付き添わなければならない、というルールがあったのでした。
水が深いと危なくなるため、安全のためですね。
そうなると、もう一人分を雇うための川札(チケット)が必要となったのでした。

大井川の経済効果は大きかった?

以上ずっと話してきましたが、大井川を渡るにはそれだけ大変であり、大勢の人々の手によって渡っていたのでした。
彼らには給料が払われるわけなので、その経済効果はとても大きかったものと思われます。

将軍クラスの人が渡るとなると、本当に大勢の人が動員されて渡ったわけです。
そうした人々に対する人件費などを考えると、江戸時代はむしろ橋をかけない方がメリットは大きかったのかもしれません。

橋が無いことによる不便さによるデメリットよりも、軍事面経済効果などのメリットの方が上回ってしまったために、江戸時代トータルで橋をかけられなかったのかもしれませんね。

蓬莱橋(ほうらいばし)

蓬莱橋(静岡県島田市)

大井川には、蓬莱橋(ほうらいばし)という、明治時代の1879年にかけられた橋が存在します。

蓬莱橋(ほうらいばし)」という橋の名前は、

  • 静岡藩主静岡藩知事)の徳川家達(いえさと)※後述します

が、かつての家臣(家来)たちの激励のためにこの地をおとずれた時に、お茶がまるで宝のようにガッポリ採れる牧之原台地(まきのはらだいち)のことを、「宝の山」を意味する「蓬萊山」に例えたことに由来しています。
宝の山に通じる橋、という意味をこめてつけられたわけですね。

蓬莱橋。大井川の向こう側が、牧之原台地。(静岡県島田市)

牧之原台地(まきのはらだいち)は、大井川の南に位置する、静岡県島田市・牧之原市(まきのはらし)・菊川市(きくかわし)の3つの市にまたがる台地です。
温暖な気候でお茶が育ちやすい環境であるために、日本一の茶どころとして知られています。

江戸時代に、この地域の開墾が推奨される

明治時代になってから四民平等となり、多くの武士たちが秩禄(ちつろく:給料)などの特権を失い、困窮してしまう元・武士(士族)が多かったのでした。
そこで、武士の職を失ったことの救済策として、この地域の開墾が推奨されたのでした。
開墾(かいこん)とは、何も無い土地を耕して、人々が食べていけるような場所にすることです。

徳川家達(いえさと)とは?

江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)に代わり、徳川家達(いえさと)がその後を継ぎ、静岡藩が立てられたのでした。

徳川家達(いえさと)は、簡単にいえば、徳川慶喜の次の代の人物です。
もし江戸幕府が滅んでいなかったら、16代将軍になっていた人物ということになります。
駿河府中藩の藩主(トップ)として、1868年に駿河府中(静岡市)入りしました。
その後、静岡藩のトップである静岡藩知事を経て、明治時代には貴族院議員としても活躍しました。

静岡藩とは 「駿河府中」から、縁起を意識して「静岡」へ

静岡藩(しずおかはん)は、江戸時代にそれまで駿府城(すんぷじょう:静岡市)を拠点として存在した駿河府中藩(するがふちゅうはん)が、明治時代に改称をした藩です。

江戸幕府が崩壊すると、静岡市の位置に新しく駿河府中藩(するがふちゅうはん)が出来ました。

しかし「府中」の文字が、逆らうことを意味する「不忠(ふちゅう)」を連想させるため、縁起が悪いとして「静岡藩」に改められたのでした。

静岡の由来は、現在の駿府城公園の北にある、賤機山(しずはたやま)に由来しています。

1871年の廃藩置県により、静岡藩は廃止され、新しく静岡県が成立したのでした。

牧之原台地と、島田を結ぶためにかけられた蓬莱橋

蓬莱橋の話に戻します。

蓬莱橋は、

  • 職を失った元・武士たちが新たに生計を立てる目的で「茶畑」として開拓していた、牧之原台地(まきのはらだいち)
  • 東海道の島田宿

とをそれぞれ結ぶために、1879年に架けられた橋というわけです。

現在の蓬莱橋

蓬莱橋を渡るのは有料であり、100円(2024年現在)となります

蓬莱橋は、地元の住民の方々も通行しています。
ただし、渡る人の多くは観光客となっています。
また、蓬莱橋はテレビドラマや、時代劇のロケ撮影にも使われています。

橋は基本的には木製ですが、橋を支えるための足である「橋脚(きょうきゃく)」は、洪水のときに橋が流されないために、強度の高い鉄筋コンクリート製となっています。

厄(やく)が存在しない、「長生き橋」

蓬莱橋の長さは897.4mであり、「897.4 mの長い木橋(ながいきばし)」にかけて「厄なしの長生き橋(やくなしのながいきばし)」ともいわれています。
約1kmもある橋なので、これは凄い長さです。
実際に、世界一長い木造による歩道橋として、ギネス登録されています。

現在では、観光目的以外で蓬萊橋がメインで使用される機会は、ほとんどなくなっています。
理由は川の下流部に、より便利な島田大橋が架けられたためです。地元の人たちは、島田大橋をメインで利用するようになったのでした。

おわりに:「大井川に橋があることの素晴らしさ」

現代の我々は、当たり前のように大井川の橋を渡っていると思います。
しかし昔の人は、本当に苦労して川を渡っていたのでした。
現在では当たり前のことも、昔は当たり前ではなかったのですね。

今後は、もしあなたが東海道線東海道新幹線などで大井川を渡るときには、あるいは散歩やドライブなどで大井川を渡るときには、ぜひとも大井川に橋があることの素晴らしさを実感していただければ、と思っています!

昔の人が苦労して渡っていた大井川を、今や一瞬にして渡り去ってしまうことの素晴らしさを、少しでも実感していただける機会になれれば、と思っております。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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